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医ケア児家族LIFE STORY Vol.2~18トリソミーの妹が家族を変えた。感謝の気持ちでこれからを生きる。~

医ケア児家族LIFE STORY Vol.2~18トリソミーの妹が家族を変えた。感謝の気持ちでこれからを生きる。~

#障害児・医療的ケア児家庭支援 #仙台

こんにちは!フローレンス仙台支社でライターをしている小澤です。医療的ケア児の息子を育てているのですが、その過程で様々な壁にぶつかり、それを解決したいと思い、フローレンス仙台支社の皆さんと一緒に活動しています。

「医ケア児家族LIFESTORY」では、医療的ケア児のご家族にインタビューし、今までの苦労やどう考え乗り越えてきたか、などそれぞれの「生き方」をご紹介し、医療的ケア児の保護者の様々な「したい!」が実現できるよう応援していきます。


「短くても濃い人生にしようって、家族で決めたんです」
齋藤なごみさんは妹さんについてのインタビューが始まってすぐに、こうお話ししてくれました。
なごみさんの妹・ゆめ佳ちゃんは、18トリソミーという病気がある医療的ケア児でした。2023年2月、9歳で他界。それでも家族でたくさんの思い出をつくれたことで、残された家族も前を向いていると言います。なごみさん「何もさせてあげられなかったら、悲しいしぽっかり穴が空いてしまってたと思う。けどたくさん経験させてあげられたから。」これは、妹さんと一緒に過ごした時間を糧にこれからを生きる、医療的ケア児の姉、なごみさんの物語。

とにかく色んなところに一緒に行けた思い出。時には車中泊も。

齋藤なごみさんと家族

なごみさんは現在大学3年生。フローレンスが仙台で主催した、「医ケア児おやこ映画会」にボランティアとして来てくださいました。

その時に私たちに妹さんのお話をしてくださったことで、お話を聞く機会を設けることになったのです。

インタビューが開始してすぐなごみさんの口から出てきたのは、「私たちはいろんなところに行ったんです」というエピソードでした。

なごみさん「18トリソミーの子は気管切開がある子も多く、ちょっとした風邪や感染症が命取りになることもあるので、あんまり家から出さないご家庭も多いと聞きました。でもうちは気管切開もなく、医療的ケアは酸素と胃ろうだけだったので、私やもう一人の妹がしているフィールドホッケーの全国大会とかによく連れていきました。東北大会や近場から始めて、だんだんと距離を伸ばして四国や九州などの遠方にも何度も行くことができるようになりました。車中泊もしましたし、飛行機にも乗りました。」

医療的ケア児を連れて車中泊というのはすごいですよね。なかなか聞いたことがなく、筆者はとても驚きました。体調の心配などはなかったのでしょうか。

なごみさん「妹は体温調節が苦手だったので、それはかなり注意しましたね。空調だけでは難しかったので、夏なんかは保冷剤をいっぱい持っていって、常に冷やしたりしていて。外では日傘をたくさんさして日差しから守ったり、小型の扇風機を3台回したりしていました。一度、暑さにやられて嘔吐や血便をしてしまったこともありましたが、それ以外は体調のトラブルとかはなかったです。夏の宮崎でも平気でした。旅行中に病院にかかるようなこともなかったですね。」

それからなごみさんはこう続けました。

「家族みんな、妹のことが大好きで、どうしても一緒に連れて行きたかったんです。『かわいいでしょ?』って見せたかった。笑」

妹が変えてくれた家族の形

ここまで聞いていると、絵に描いたような素敵な家族という印象を抱きますが、「妹が生まれる前は、決していい家族ではなかった」となごみさんは言います。

なごみさん「母は高校の教員なのですが、担任や部活の顧問もしていたので帰りも遅く、話す時間もほとんどありませんでした。父は農業で自営業ですが、農作業をやったり地区の集まりにかりだされていて、夜はいつもいなかった記憶です。夜ご飯は毎日祖母と食べていて、両親との思い出はなかったです。私自身も、荒れた子どもだったと思います。言葉使いも乱暴でした。」

今の仲の良さから想像できない状況だったんですね。なごみさんはこう続けます。

「でも、妹が生まれてから一変したんです。母は、育児休暇を長めに取ったり介護休暇を取ったりすることで、家にいる時間が長くなるよう工夫していました。仕事に復帰してからは短時間勤務にして定時で帰宅。ゆめ佳が就学してから普通の勤務体系に戻しても、担任や運動部の顧問からは外れて、ほぼ定時で帰宅していました。夜ご飯も母が作ってくれるようになって、家族で話す時間や、妹のことに関する会話量が圧倒的に増えたんです。私も妹がかわいくて、家族と妹について話しているうちに性格も丸くなったねと言われました。父は妹が生まれてから育児参加するようになって、何でもしてくれるようになった、と母は言っていました。もっと早くやってくれたら、とも。笑。妹が家族を変えてくれたんです。感謝しかありません。」

ゆめ佳さんの葬儀の時には参列者が口を揃えて、「齋藤家に生まれてよかったね」と言ってくれたそうです。ゆめ佳さんと一緒にいた時間は短くても、たくさんの笑顔と思い出があふれる、素敵な時間を過ごすことができたんですね。

齋藤なごみさんと家族

妹への感謝を胸に、恥じないように私たちは生きる。

こんなにたくさんの宝物を残していってくれたゆめ佳さんの存在は、なごみさんの人生にも大きく影響を与えました。

なごみさんは現在、養護教諭を目指して大学で学んでいるのですが、それはゆめ佳さんと過ごした経験があったからだそうです。

なごみさん「最初は母が教員だということで、教職を目指し始めました。でも教壇に立って教えるということが苦手で、そうなると学校で働くとなったら選択肢は少なくなっちゃうと思ったときに、養護教諭はどうかなって。子どもにも接することができるし、ゆめ佳と過ごした経験も活かせるんじゃないかなって思ったんです。妹は、地域の小学校に通おうとしたけど、医療的ケアがあるからという理由で通うことができませんでした。今後もしそんな子がいたときに、医療的ケアの知識があれば、受け入れるときの方法を一緒に考えたりできるんじゃないかなって。うちの親が『医療的ケアがあるから』と断られて、片道1時間かかる養護学校まで送迎しているのを見ていたので。医療的ケアについて理解のある学校にするために、養護教諭としてできることがあるんじゃないかなって思いました。」

なごみさんはこうも仰っていました。

「人生を考えないといけない時間に妹と過ごせたことはすごく大きかったです。妹がきっかけで医療のことも勉強するようになったし、頑張る活力になりました。さっきも言いましたが、本当に妹には感謝しています。だからこそ、私たちは妹に恥じないよう、これからを生きていきたい。そう家族とは話しています。」

さいごに。「障害があっても、かわいそうじゃない。だけどもっと便利にはなってほしい」

医療的ケア児

最初から最後まで、終始にこやかに、妹さんとの思い出を楽しそうにお話ししてくれたなごみさん。ずっとポジティブな話ばかりでしたが、障害のある子どもと暮らしていて、不便なことや大変だったことはなかったのか、最後に聞いてみました。

「妹が生まれたとき、田舎なので、障害がある子が生まれただけでかわいそうって言われたことがあります。でも、別にかわいそうじゃないじゃないですか。私たちはかわいいと思っているのに、かわいそうって言われてしまうことが悲しいことだなと思いました。」

「あと、うちの妹は酸素ボンベを使っていたんですが酸素ボンベの本数が制限されていて、新幹線移動が難しかったこともありました。その辺が変わってくれたら新幹線が乗りやすくなる人もいるかもしれないなと思います。身体障害者用駐車場も、そうじゃない人が使ってたりして使えないことがあったりして…そのへんは変わってくれたらいいのにと思いますね。」

きょうだい児として、病気と医療的ケアがある妹さんを、ご家族と一緒に支え続けたなごみさん。ゆめ佳さんがくれたかけがえのない時間と、新たにできた目標を抱え、医療的ケア児が過ごしやすくなる社会にするために、今も頑張って勉強しています。

「妹が亡くなったのは悲しいし寂しいけど、それがわかる立場として、これから誰かの助けになりたいです。」


『医ケア児家族LIFESTORY』シリーズは「#医ケア児もいっしょに まざらいんキャンペーン」の一環として、今後も医ケア児のご家族の様々な「生き方」をご紹介して参ります。

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