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医ケア児家族LIFE STORY vol.3~障害児二人を育てる生活、支えてくれる事業所に感謝。「自分を保つことができるのは、ここがあるから」~

医ケア児家族LIFE STORY vol.3~障害児二人を育てる生活、支えてくれる事業所に感謝。「自分を保つことができるのは、ここがあるから」~

#障害児・医療的ケア児家庭支援 #仙台

こんにちは!フローレンス仙台支社でライターをしている小澤です。私は医療的ケア児の息子を育てているのですが、その過程で様々な壁にぶつかり、それを解決したいと思い、フローレンス仙台支社の皆さんと一緒に活動しています。

「医ケア児家族LIFESTORY」では、医療的ケア児のご家族にインタビューし、今までの苦労やどう考え乗り越えてきたか、などそれぞれの「生き方」をご紹介し、医療的ケア児の保護者の様々な「したい!」が実現できるよう応援していきます。

▼これまで掲載された医ケア児家族LIFE STORYの記事はこちらから読めます。


「行政とは色々ありましたね。でも、最後までわたしが決めたことをね、押し通しましたよ(笑)」

朗らかに笑いながらこうお話ししてくれたのは、仙台市に住む三浦さん(仮名)です。

三浦さんは、障害児ふたりを育てるお母さん。一人目のお子さんには遺伝子疾患があり、発達が遅く、重度の知的障害と診断されました。二人目はダウン症のお子さんで、胃ろうと気管切開、人工呼吸器などの医療的ケアがあります。

ふたりのお子さんを育てる中で、療育や生活について行政と考えがすれ違い、話し合いを重ねたこともあるそうです。でも、「こどもたちの今後のことまで一番考えてるのはわたしだから」という芯を持って交渉し、今は「こどもにとっても親にとってもいい生活スタイル」を見つけつつあると言います。

それを実現するのに不可欠だったのは、児童発達支援や放課後等デイサービスなどを行っている民間の事業所でした。

三浦さん「この事業所があるおかげで、わたしは自分を保てていると思います。」

この生活に行き着くまでの道のりをお聞きしました。

一人目の子の障害がわかり、仕事は手放さないといけなくなった

退職届のイメージ

三浦さん「もしかしたら、一番つらかったのは、一人目の子の障害がわかって、保育園に通い続けられない、となった時だったかもしれません。仕事をやめないといけなくなってしまって、あの時仕事を続ける方法はなかったのかって、今でも心に残っています。」

三浦さんの第一子は、生後5~6ヶ月頃に発達の遅れが気になるようになったそうです。吐き戻しもかなり多く、かかりつけ医から紹介を受け、こども病院に通うことになりました。

三浦さん「ミルクをよく吐いてしまうということで、一度こども病院に診てもらうことになりました。その時はこれといった異常や病気は指摘されず、首すわりが遅いなど発達で気になることもありましたが、とりあえず様子を見ようということになりました。当時育休中だったわたしは、こどもが0歳の時に職場に復帰。こどもは保育園に預けましたが、1歳くらいになるとやっぱり発達遅滞が目立ってきて、同じ保育園の障害児枠に切り替えをしたんです。その保育園には2歳まで通いましたが、通っている中で『保育園よりも適切な場所があるのでは?』と先生に提案されたり、大学の教授だという専門家の方から『療育の必要性』を説明されたりして、もう退園するしかないんだなと思いました。それで療育を受けるための施設をどこにするかという相談を行政機関としていたら、『仙台市には母子通園の施設しかないので、仕事はやめてもらうしかありません』と言われてしまったんです。その時はただ『そういうもんなのか』と受け止めるしかありませんでした。でも、十何年続けてきた仕事で、信頼も積み重ねてきて、管理的なことも任されるようになっていたし、これからも続けるつもりだったし、やめないといけないということは、辛かったです。周りに障害児のママ友とかもいなかったので、誰とも共有できず、一人で抱えるしかなくて、一人になると涙しか出てきませんでした。」

二人目の子の入院中に出会ったママからの情報で、民間の児童発達支援施設を知ったことが転機に

泣く泣く仕事をやめ、母子通園で児童発達支援センターに通っている時に、第二子を出産した三浦さん。個人病院で出産しましたが、すぐにこども病院に搬送されることになり、ダウン症の疑いと告げられました。

三浦さん「出産してすぐ、酸素の値が上がりにくいと言われて、こども病院に搬送されました。搬送後に肺高血圧症がわかって、肺高血圧があるっていうことは、染色体異常の可能性がある、と。顔つきからみても、たぶんダウン症じゃないかと医師に言われました。NICUにしばらく入院して、その後GCUに移り、2ヶ月ほどで退院はできたのですが、酸素とモニターをつけての在宅生活スタートでした。でも在宅で見始めてすぐに、SpO2(=経皮的酸素飽和度。90を下回ると呼吸不全とされる。)が90を下回ることが多くなり、よくモニターのアラームが鳴るように。何度病院に相談しても受診の必要性はないと言われていたんですが、どんどん寝る時間も長くなって、ミルクの飲みも悪くなって。ようやく定期受診のタイミングで診てもらったところ、そのままICUに入院になりました。どうやら二酸化炭素がたまってしまっていたらしいです。体調が落ち着いて退院することはできたのですが、その後も同じような症状が続き、入退院を繰り返していました。あまりに同じ症状を繰り返すので検査をした結果、もともと肺の発達が未熟であることと、気管支の狭窄があるからだということがわかり、気管切開の手術をすることになりました。」

病院内のイメージ
Medical equipment on the background of group of health workers in the ICU.

「気管切開の手術をしても、気管支の狭窄は治っていないので、SpO2が一気に落ちる現象は改善しませんでした。特に泣いたりすると、すぐに50を切ってしまう状況もあって。酸素をつないでアンビュー(口と鼻から、マスクを使って換気を行う装置)しながら空気を送るという処置が頻繁に発生していました。あれよあれよという間に酸素も人工呼吸器も必要、という事態になり、入退院を繰り返す生活も、しばらくは続きました。」

その生活の中で転機になったのは、入院中に出会ったママとの出会いでした。

「ある時入院中に出会ったママに、医療的ケア児が利用できる民間の児童発達支援施設を教えてもらったんです。それで1歳くらいの時に見学に行ったら、『1歳でも受け入れできるよ』とその施設の方に言ってもらえて。その時はまだ入退院を繰り返していたので、落ち着いてきた1歳半くらいの時から、児童発達支援に通い始めました。でも、通い始めるまでは一筋縄では行かなかったですね。」

行政に「わたしが叶えたいこと」を訴え続け、手に入れた生活

三浦さん「まず、この児童発達支援施設に通いたいと、当時担当してくれていた相談支援員に伝えたんですが、『そんな小さいうちから?こどもが小さいうちは親といるものだよ』みたいなことを言われてしまいました。その時はもう腹が立って、その相談支援員が所属している事業所に電話して、担当を変えてもらうことに。それだけではなく、その後行政機関からも、『うちが提供する初期療育を終えてないと、児童発達支援には通えない』と。でも、その行政機関との関わりは一度上の子の時に経験しているし、その時に『やめるしかない』と言われたからやめたくない仕事もやめて、今は上の子の行事参加とかも全然できてなくて、わたしがやりたいことが全然叶えられてないっていう想いがあって。『少しくらいわたしの望む生活を叶えてくれてもいいじゃない』って、その時は思ったんですよね。それで、引き下がらずに必要性を訴え続けました。」

「それに、家族以外でこの子のことをわかってくれる場所も欲しかったんです。訪問看護も使っていたしとっても助かっていたけれど、一日のうち数時間しか見てないので、この子のトータルの生活や日常を把握できるわけではないですよね。だから、今後のことも考えて、この子を家族以外で理解してくれる人が欲しかった。そういう話を行政ともして、希望通り通所ができることになりました。」

こどものことを知ってくれる人が増える心強さ、一人の時間。叶えられたのは民間の事業所があったから

笑顔のイメージ

「最初は週に一度だったのですが、それをだんだん増やして、年中の頃には、市の児童発達支援センターと、この児童発達支援事業所と、2箇所に週5回通うスケジュールにできました。児童発達支援センターも母子分離だったので、やっと自分の時間が持てるようになった…と感じました。自分の時間といっても、通い始めたばかりのときは、ただただ疲れて、休むことしかできなかったです。下の子は夜間もモニターのアラームが鳴ればアンビューで、まとまった睡眠を取るのは難しかったし、上の子もその時はほぼ全介助だったので。毎日医ケアに介助にすっごく忙しかったので、児童発達支援に預けることができたのは、本当に、ありがたかったです。」

「こどものことを自分以外に知ってる人がいる、という安心感もすごくありました。民間の児童発達支援施設は、放課後等デイサービスも運営しているので、小学校に上がってからも頼りにできるというのもありがたかったです。実際今は下の子は小学校に通い始めているんですけど、呼吸器があるから毎日は通えない、という状況なんですが、通えない日も民間の事業所を利用させてもらい、通学できなくても週5日どこかしらには通えています。学校という場ではないけれど、平日はどこかに通う、という『普通のこと』ができるのはその事業所のおかげです。そこがあるから、まだ自分を保てていると思います。もしここがなかったら、今生きていられたかな…と思ったりもします。事業所を利用したからこそできた人とのつながりもあって、今の生活すべての起点になっているところだな、と思います。」

「これからは自分の経験を伝えていきたい」

三浦さんは今、ある医療的ケア児の家族会の運営にも携わっています。

「あの時仕事をやめないといけなかったことは、正直、今もどこかに引っかかっています。本当にやめる選択肢しかなかったんだろうか、行政も『辞めるしかない』の一言で片付けず、一緒に続ける方法を考えてくれることはできなかったのか、とも思いますし、怒りも感じます。でも今は、仕事ができる状況になったとしても、あの時の仕事に戻ろうとは思わないかもしれません。今こうして色んな経験をしてきたからこそ、家族会とか、他の形でも、自分の経験を伝えたりする方を頑張っていこうかなって思っています。」


『医ケア児家族LIFESTORY』シリーズは「#医ケア児もいっしょに まざらいんキャンペーン」の一環として、今後も医ケア児のご家族の様々な「生き方」をご紹介します。

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