「体験格差」と聞いて、
「うちはあまり、いろいろ経験させてあげられていないかもしれない」
そんな不安を感じたことはないでしょうか。
海外旅行、特別なイベント、華やかな習い事。
そうした“目に見えやすい体験”の多い少ないで、こどもたちの間に差が生まれている——。
「体験格差」という言葉には、どこかでそんなイメージが重なりがちです。
一方で、この言葉に触れたとき、「自分は“体験がない側”なのかもしれない」と感じた、という声もあります。
この言葉が指しているものは、本当にそれだけなのでしょうか。
どれだけ経験させられるかが、親からのギフト?
「わたしは群馬県の田舎育ちで、派手な体験なんて全然してこなかった。それって“格差がある側”ってこと?レッテルを貼られてる感じがする!」
こんな問いかけから、議論は始まります。
世の中で語られる「体験格差」は、往々にして“経験のカード”をどれだけ持っているかという文脈で語られがちです。あるドラマでは、こんなセリフが登場しました。
「こどもにどれだけ多くのことを経験させられるか。それが親からのギフトです。武器と言い換えてもいい。これを“体験格差”と言うそうです」
小さなこどもに、複数の習い事を掛け持ちさせる。
そうした描写は、極端でありながらも、どこか現実と重なる部分があります。
「体験格差」とは、経験の“量”の差である——。
そんなイメージが、広く共有されているのかもしれません。
“経験のカード”をどれだけ持っているか
近年、教育の現場では「総合的な人間力」が重視されるようになってきました。
テストの点数だけでなく、どのような経験をしてきたかも評価の対象になります。
その流れの中で、
- 海外経験があるか
- 習い事をどれだけしているか
- 課外活動にどれだけ参加しているか
といった“経験のカード”の多さが、可視化されやすくなっています。
しかし、それは本来の意味での「体験格差」と同じものなのでしょうか。
フローレンスが考える「体験格差」
フローレンスが考える「体験格差」は、単に「経験の量」の違いではありません。
わたしたちが問題だと考えているのは、
「自分の世界を広げるきっかけに出会えるかどうか」です。
あえて「格差」という言葉を使うなら、「自己決定の機会の格差」とでもいいましょうか。
ここでいう体験とは、特別なイベントや習い事だけではありません。
誰かの好きなものの話を聞くこと。
初めての遊びに出会うこと。
「面白そう」「やってみたい」と思えること。
そんな日常の小さな出会いの積み重ねが、こどもたちの興味や関心を育てていきます。
そして、その「やってみたい」という気持ちこそが、自分で未来を選び取っていく入口になります。
「やりたいこと」は、どこから生まれるのか
こどもが「これをやってみたい」と思うとき、その関心は、ゼロから生まれているわけではありません。
たとえば、
- 身近な大人が何に興味を持っているか
- 日常の中でどんなものに触れているか
- 誰と、どのような時間を過ごしているか
こうした環境の影響を受けながら、関心や選択肢は形づくられていきます。
つまり、
「何をしたいと思えるか」そのものが、環境によって左右される
ということです。
機会そのものが失われつつある
実際に、こどもたちの生活には変化が起きています。
- 小学生の平日の外遊び日数は「0日」が78%
- 放課後に遊ぶ友達が「0人」が18%
日常の中で、誰かと関わったり、何かに触れたりする機会そのものが、減少しています。
体験の“多さ・少なさ”という以前に、そもそも関心のきっかけに出会う機会が限られている。
そこに、フローレンスは課題を見出しています。
「体験を増やす」ではなく、「きっかけをひらく」
フローレンスが目指しているのは、特別な体験を“増やす”ことではありません。
こどもたちが
「面白そうだな」
「やってみたいな」
と感じる、そのきっかけに出会えること。
そして、自分なりに選び取っていけること。
そうした“自己決定の入口”をひらくことです。
続きは音声で
ここまで読んで、「体験格差」という言葉の見え方が少し変わった方もいるかもしれません。
このテーマは次回、フランスの社会学者ピエール・ブルデューの理論を手がかりに、「なぜ人の関心や選択が環境によって形づくられるのか」をさらに掘り下げていきます。
「一見難しそうだけど、実はわたしたちの日常に密接に関わるお話」です。続きはぜひ音声でチェックしてみてください。


