「自分の好きなものは、自分で決めてきた」
そう言い切れる人は、どれくらいいるのでしょうか。
好きな音楽、夢中になったもの、「面白そう」と思って飛び込んでみた世界。わたしたちはそれらを、自分の感性や意思で選んできたと感じています。
でも、フランスの社会学者ピエール・ブルデューは、その「あたりまえ」にこう問いかけます。
「その”好き”は、本当にあなたが選んだのですか?」
美術館の「感動」は、なぜ起きるのか
美術館を訪れて、有名な絵画の前に立ったとき。
「雷に打たれたような感動を覚えた」「運命的な出会いだった」
そんな言葉を耳にすることがあります。
ブルデューは、この「感動」についてこう言います。
「それは偶然ではない」と。
名画を前にして「美しい」と感じられるのは、それ以前に、その作品を知っていたから。図説で目にしたことがあったから。芸術を楽しむ文化が、日常のどこかに存在していたから。
「感動できること」そのものが、生まれ育った環境によって形づくられている——
ブルデューは膨大なデータをもとに、そう主張したのです。
「好き」は、ゼロから生まれない
ブルデューはこの考え方を「ハビトゥス」と呼びます。
個人の趣味や行動の傾向は、家庭と学校によって形成される、という考え方です。
少し身近な例で考えてみましょう。
日常的にクラシック音楽が流れる家で育てば、自然とそれが耳に馴染む。アニメソングや歌謡曲の中で育てば、プレイリストはまったく違うものになる。どちらが優れているということではなく、「何を心地よく感じるか」が、環境によって少しずつ形づくられていく。
そして、それはこどもたちの「やってみたい」という気持ちにも、同じように働きます。
誰かが野山に連れ出してくれたから、虫や植物への興味が芽生えた。日常の中で手仕事をする大人が近くにいたから、ものをつくることへの関心が生まれた。
知らなければ、「やってみたい」とは思えない。
出会いがなければ、関心も生まれないのです。
「やりたいことがない」は、本人の問題?
ブルデューの理論は、「体験格差」を考えるうえでも重要なヒントになります。
フローレンスが考える「体験格差」は、習い事の数や経験の量の話ではありません。
わたしたちが大切だと考えているのは、
どんなことにわくわくするか。
何を“面白そう”と思えるか。
「自分の世界を広げるきっかけに出会えるかどうか」です。
こんな調査があります。
『体験格差』(今井悠介)で紹介されているデータによると、こどものころに自分自身がさまざまな体験をしていた親ほど、「こどもがやりたいと思った体験を、経済的な理由などで諦めさせたことがある」と答える割合が高かったのです。
一見、不思議に感じるかもしれません。
でもこれは、親自身が過去に体験をしてきたからこそ、「こういう経験には意味がある」と実感できている、とも考えられます。
一方で、自分がそうした体験に触れずに育った場合、そもそもそれが“選択肢として思い浮かばない”こともある。これは無関心というより、「知らなければ、求めようがない」ということなのかもしれません。
フローレンスの考える「体験格差」、つまり、「きっかけに出会えないこと」は、世代をまたいで静かに受け継がれていくのです。
では、変えることはできるのか
ブルデューの理論は、一見すると重苦しく聞こえます。
「環境で決まるなら、変えようがないのでは」と。
でも、ブルデュー自身はフランスの山奥の出身。
文化資本にアクセスしにくい環境から、アカデミズムの中心へと歩んだ人物でもあります。
だからこそ、彼の理論は単純な「運命論」ではありません。
人は環境に影響を受けながらも、ときにそれまで出会わなかった世界や他者との接点によって、自分の見える景色が変わっていくことがあります。
ではそのとき、何が鍵になるのか——
エピソードの後半では、その問いに踏み込んでいきます。
続きは音声で
「好き」はどこからやってくるのか。
そして、ハビトゥスは変えられるのか。
自分の”好き”の出どころを、一度立ち止まって考えてみたくなった方は、ぜひ音声で続きを聞いてみてください。


