フローレンズラジオは、社会課題をさまざまなレンズから見つめる音声コンテンツです。
医療的ケア児編もいよいよ第二章。ここからは、「障害児保育園ヘレン」がどうやって生まれたのかを、立ち上げメンバーの2人に振り返ってもらいます。
今回のスピーカーは、ヘレンの立ち上げメンバーである森下さんと石川さん(以下レンさん)。まずは、立ち上げ時にマネージャーを務めていた森下さんです。

……はい、なぜか10年以上前に流行ったポーズでの登場です。実は、過去にお笑い芸人を目指していたこともある森下さん。真面目な話のなかにも、ついユーモアを織り交ぜてしまう、根っからのエンターテイナーです。
森下さんは障害児保育園ヘレンの創業メンバーで、現在は広報で映像制作や配信を担当しています。もう一人、沖縄からやってきたレンさんは、2014年に入社し、同じくヘレンの開設メンバーとして走った一人です。
森下 倫朗

広告会社勤務を経て2011年2月にフローレンスに入社。「障害児保育園ヘレン」立ち上げ・マネージャーなど、障害児保育事業に長く携わる。現在は広報チームに所属し、映像制作や配信を担当。全社会議では「司会太郎」を名乗り社員を盛り上げる。過去にお笑い芸人を目指していたときもあった。
石川 レン

大学時代に非営利組織論を研究し、新卒でNPOへ。2014年フローレンスに入職し、森下とともに「障害児保育園ヘレン」の開設に奔走。現在はフローレンズラジオの編集や動画制作を担当。沖縄在住。
清野 友花

今回の聞き手。認定NPO法人フローレンス広報。メーカー系商社で人事を経験後、2019年入職。フローレンズラジオのパーソナリティを担当。こどもを持たない当事者としての視点を大切にしている。図鑑を読むのが好き。
こんなメンバーで、和気あいあい、やたらテンション高く始まる今回ですが、笑いながら聞いているうちに、だんだん背筋が伸びていく——そんな回でした。
10年以上前の日本には、保育園に申し込むことすらできないこどもたちがいたのです。
待機児童にすら、なれなかった
「障害児保育園ヘレン」は、たんの吸引や胃ろうなどの医療的ケアが必要なこどもや、重症心身障害のあるこどもを対象にした保育園です。一般的な保育園と同じように毎日利用でき、保護者はその間、仕事に行くことができます。保育士に加えて、看護師、理学療法士、作業療法士なども配置しています。
2014年の開園当時、ヘレンのような保育園は皆無に近かったのです。
当時の日本は、待機児童問題の真っただ中。保育園に入れないこどもの数が、毎年ニュースになっていました。
ただ、その「待機児童」という言葉には、ある前提が隠れています。待機児童は、保育園に入れてはいないけれど、列に並ぶことはできている状態です。順番を待っていれば、いつか入れる可能性がある。
その列にすら、加わることのできないこどもたちがいました。

レン
医療的ケア児や重症心身障害児——この子たちは、待機児童にもなれなかったんです。
だからどうするかって言ったら、家でお父さんかお母さんが24時間体制で見守らなければならない。そういう社会課題があった。
順番に並ぶことすら、できない。
保育園の入園申込書を持って窓口に行くと、書類そのものを受け取ってもらえない。「障害福祉課に行ってください」と促される。障害福祉課で案内されるのは、障害児向けの通所サービスです。ただ、そこは週に1回か2回、1回あたり2時間ほどの利用が中心でした。
「それでは働けません」と保育課に戻ると、「医療的ケアがあるのであれば…」と、また障害福祉課へ。たらい回しの末に、申し込みは受理されないまま終わります。

森下
医療的ケア児のお母さんが言っていたのが印象的で。「待機できるだけでも、待機児童になれるだけでも本当にうらやましい」と。その言葉が、僕は今でも心に残っています。
なぜ、申し込みすらできなかったのか。理由は明確でした。医療的ケアのあるこどもを保育園で預かるには、看護師が必要です。しかも、こどもの医療的ケアの経験がある看護師でなければ難しい。
例えば、気管切開をしているこどもの、たんの吸引。高齢者や成人への経験があっても、こどもは喉が小さく、勝手が違います。病院なら、医療機器があり、医師がいて、何かあれば誰かが駆けつけます。でも、保育園にいる看護師は一人。他のこどもも見なければならず、一人につきっきりにはなれません。
結果として、ほとんどの保育園が「受け入れられません」となる。受け入れ先がないから、自治体も書類を受け取れない。こどもたちは、制度の入り口の前で止まっていました。
東京中を探しても、見つからなかった
話は2013年ごろにさかのぼります。
フローレンスは新規事業の開発を進めていました。当時の代表理事の駒崎さん、森下さん、そしてインターン生の3人体制です。
当時のフローレンスは、病児保育や認可保育園など、未就学児の保育を中心に事業を展開していました。新規事業を模索するなかで、児童館や学童保育といった周辺領域にも目を向け、そのアイデアのひとつとして浮かんだのが、障害のあるこどもを対象とした事業でした。
そんな検討をしていたときに、世田谷区に住むある家庭から相談が届きます。
「自分のこどもには人工呼吸器がついています。今、保育園に入ろうとしているけれど、どこも預かってくれない。わたしは間もなく仕事に復帰しないといけなくて、非常に困っている。フローレンスさん、どこか、この子を預かってくれる保育園を知りませんか」
駒崎さんと森下さんは、片っ端から電話をかけました。自治体の窓口にも、障害福祉課にも。

森下
世田谷区周辺で保護者が働けて、かつ、人工呼吸器のあるお子さんを預かれる保育園を探したんです。「あるだろう」と思っていたんですよ。僕らは保育事業者ですから、探せると思っていた
ところが、全然なかった。本当になかった。
23区で見つからず、範囲を東京の西側へ、千葉へ、神奈川へと広げていきます。
ようやく見つかったのは、神奈川県横浜市鶴見区にある保育園でした。生まれたばかりの赤ちゃんの集中治療に携わった経験を持つ看護師たちが中心となって運営していた園です。
その家族は、世田谷区から鶴見まで引っ越しました。こどもの預け先を得るために、住む場所を変えたのです。そしてお母さんは、仕事を続けることができました。
一つの家族の問題は、解決しました。けれど、その先には、はるかに大きな問題がありました。

森下
当時、僕たちは「病児保育問題を解決する」「待機児童問題を解決する」と言っていて、保育のことだったら任せろ、ぐらいの感じだった。
ところが、障害児保育に関しては、その問題すら全く知らない状態だった。そして、1,000万人以上が住むこの大東京で、たった一人のお子さんも救えないのか、というのが、当時の僕らにはものすごく重かったんです。
鶴見のその園が特別だったのは、専門経験を持つ看護師が複数在籍する例外的な体制でした。 同じことを全国どこでも再現できるかといえば、できません。
こうして問題の構造が見えていくなか、2014年4月、前職で放課後等デイサービスに携わっていたレンさんが、「これは僕がやるっきゃない」とフローレンスに入社し、事業の立ち上げに加わります。

レン
その園ではたまたまお子さんを預かれる体制があっただけで、これは社会問題だと。そう認識しないと社会は変わっていかない。
こうしてフローレンスは、この状況に名前をつけます。「障害児保育問題」。

清野
社会課題を見つけてしまった。見つけてしまったら?

森下・レン
解決するしかない!
たった一つ、話を聞いてくれた区
事業を始めるには、自治体との連携が欠かせません。2人は「一緒にやりませんか」と、23区に片っ端から電話をかけていきます。
結果は、ほぼ門前払いでした。

森下
残念ながら、当時はそういうことを言っても全く相手にしてくれなかった。「そんな事業は成り立たない」とか、シビアな反応も多かった。
あとは、「障害のある子に保育はいらないでしょう。お母さんが見ればいいじゃない」みたいなことを、自治体の人も普通に言っていた。
「ニーズがない」。当時、何度も向けられた言葉です。

レン
でも、困っている当事者たちは困りごとを言えないし、どこに言えばいいかも分からない。24時間365日こどものお世話をしていると、断続的にしか眠れないとか、本当に大変な状況があるので、誰かに困りごとを訴えるなんてとてもできないじゃないですか。
困っている人にとって、相談すること自体がすごくエネルギーの要ることですからね。
そんな中で唯一、反応が違った区がありました。
杉並区の障害者施策課です。

森下
「その話、とっても興味ある。もっと詳しい話聞かせて」と言ってくれた。重い障害がある子が保育園に通えないっていうのは、杉並区としても問題意識を持ってるんだ、ということでした。
担当の課長と係長が「今すぐ来てほしい」と。だからもう速攻、「駒崎さん行きますよ!」って電話を切って、その足で杉並区に向かいました。

清野
すごい出会いですね。行政にも、同じ思いで「問題だ」と捉えてくれた人がいた。
たまたま人事異動でその課にいて、たまたま決裁権のある立場で、たまたまこの社会課題に興味を持ってくれた人が2人。森下さんは「奇跡的な出会い」と振り返ります。

森下
この2人がめちゃくちゃ尽力してくれた。もう、すごかった。
半年で、保育園をつくる
課題感を共有できたら、次は事業設計です。障害のあるこどもたちのための保育園を、どうやって成り立たせるのか。それを説明して回り、東京都の審査も受けなければなりません。
そして、もちろん保育施設が必要です。でもこれが見つからない。

森下
物件は借りられないし、そもそも適切なサイズ、適切な家賃のところがない。全然見つからなくて、2、3か月くらい探すだけの日々。
さらに、期限がありました。2014年9月に開園予定だったため、4月から数えて、残り半年。物件すら決まっていない段階での、半年でした。
やることは山積みです。
物件を探し、設計士を見つけ、施工会社を見つける。医療的ケアが必要なこどもが安全に過ごせて、衛生面の基準も満たす設計とはどういうものなのか、前例がないので一つ一つ詰めていく。同時にスタッフ採用も、そして入園するこどもの募集も。当時、すべてを4名のヘレンチームでやっていました。
物件と施工会社は、社員が前職で築いたつながりという細い糸をたぐって見つかりました。工期がタイトすぎて普通なら断られる案件を、その施工会社は引き受けてくれました。話を聞いて、共感してくれたからでした。
そして、東京都福祉保健局です。事業者としての指定が下りなければ、どんなに準備しても開園できません。毎日のように、たくさんの質問が飛んできます。

森下
ちゃんと指定を出せるか確認するためだからあたりまえなんだけど、重箱の隅をつつくような質問が来るんだよ。

レン
「いいところを聞きますね……」みたいな感じですよね。東京都はさすがだなと思いましたよ。
細かい質問は、当然のことでもありました。医療的ケアが必要なこどもを預かる施設です。安易に指定を出せば、命に関わります。
3か月ほどやりとりを続けるうちに、関係が変わっていきます。夜遅くに電話をすれば、都の担当者も残業している。「東京都がそこまでやってくれているなら、フローレンスも頑張らねば」。そうして迎えた終盤、都の担当者からこんな言葉が返ってきました。

森下
「森下さん、あと1か月ですよ。頑張りましょう」と。
絶対にそういうことを言ってくれなかった東京都の人がそう言ってくれたのが、めちゃめちゃうれしかった。
9月、一本の電話
そして9月12日、事務所の電話が鳴りました。東京都からでした。
「指定が出ますよ。指定番号を今から読むので、メモしてください」

レン
固定電話が真ん中にあって、森下さんが話していた。「指定番号を」と言われて、「メモれ、メモれ、メモれ!」って。森下さんが復唱している番号を、みんなで「1、2」とメモして。
電話をまだ切っていないときに、もう「ヨッシャー!」って。

森下
向こうの担当者にも聞こえてたよね(笑)。
僕らは4人のチームだったけど、当時のフローレンスはみんながワンフロアにいたので、他の部署の人たちも一緒に。普段は静かに黙々と仕事してる人も、みんな「わー!」って。
歓声の中で2人の頭に浮かんでいたのは、それまで面談してきた保護者たちの顔でした。
育休を2回延長し、「この9月に復職できなければ退職するしかない」と話していたお母さん。「友達のこどもはみんな保育園に通っていて、パパやママに友達の話をしている。でも、わたしのこどもにはそれができないんです」と話していたお母さん。

森下
うれしくて、僕も、仲間たちもみんな泣いていて。本当によかった。あの光景は、一生忘れられない。
2014年9月17日、障害児保育園ヘレン(現:荻窪園)が開園しました。医療的ケアが必要なこどもや重症心身障害のあるこどもを長時間預かる、日本で初めての保育園です。入園式には杉並区の職員も駆けつけてくれました。

レン
あの日に、本当にこれは手前味噌ですけど、社会がちょっとだけ変わった、というか。節目ができた。そういう象徴的なシーンになったんじゃないかなと思います。
一つの家庭から届いた相談から、およそ1年。「待機児童にすらなれない」と言われていたこどもたちに、通える場所ができました。

ただし、これは物語の終わりではありませんでした。

森下
ただ!

レン
だが、しかし。

森下
いや、ここからがスタートなんですよ。

清野
今までのはプロローグだったんですね!
今回のレンズ
今回は、
「社会課題は、たった一人の困りごとから見つかる」
というレンズを通して、この物語を見つめてみました。
世田谷区から届いた1通の相談は、「うちの子を預かってくれる園を知りませんか」という、ごく個人的な問い合わせでした。その1通に応えようと東京中を探した結果、預け先がどこにもないという事実が見つかり、「障害児保育問題」という名前がつき、医療的ケアや重い障害のあるこどもを長時間預かる、日本初の保育園が生まれました。
名前のない困りごとは、統計にも、行政の資料にも、そのままの形では現れません。
誰かが「これはおかしい」と気づき、名前をつけて、初めて社会の課題になります。その入り口は、たいてい、たった一人の声です。
そしてもう一つ。この物語には、たまたまが何度も出てきます。たまたま問題意識を持った職員が杉並区にいた。たまたま知り合いの不動産屋がいた。たまたま話を聞いて共感してくれた施工会社があった。
けれど、そのすべては、誰かが動いたから起きた「たまたま」でした。たった一人の声を受け取り、「やるっきゃない」と動いたこと。その熱意が人と人をつなぎ、社会を変える力になっていったのです。
続きは音声で
この記事では、障害児保育園ヘレンが開園するまでをご紹介しました。
音声では、記事に書ききれなかった掛け合いも含めて、当時の空気そのままにお届けしています。レンさんがヘレン立ち上げのために意気揚々と入社したら、面接した森下さんが育児休業で不在で……というエピソードも。2人の破天荒な自己紹介も、ぜひ音声でお確かめください。
そして後編では、「開園すればゴール」と思っていた2人を待っていた、その後の話をお届けします。


