「最近のこどもは外で遊ばない」
とよく耳にするようになりました。
でも、本当に「遊ばない」のでしょうか。
遊ばないのではなく、遊べる場所も、一緒に遊ぶ友達も、見守ってくれる大人も──気づけばいつの間にか、少しずつ失われているのかもしれません。
フローレンスが「体験格差」に取り組むのはなぜ「今」なのか。その答えは、放課後の風景が変わっていった過程の中にあります。
体験格差は、昔からあったはずでは?
前回の記事では、社会学者ブルデューの理論を手がかりに、体験格差が世代をまたいで受け継がれていく構造について触れました。

こう感じる方もいるかもしれません。
「格差なんて、昔からあったんじゃないの?」と。
その通りです。
旅行に行ける家もあれば行けない家もある。習い事をたくさんできる子もいれば、そうでない子もいる。体験の差そのものは、昔から存在していました。
それでも、かつてのこどもたちには、経済力に関係なく比較的共有されていたものがあります。
野山や公園で遊ぶ時間。近所の子と集まる放課後。知らない大人に怒られたり、見守られたりしながら過ごす時間。
特別なイベントや習い事ではないけれど、「こどもだけで過ごす時間」そのものが、一つの体験になっていました。
では、令和の今、何が変わったのか。
フローレンスが注目するのは、こどもと関わる大人の数、そして体験を支えていた地域の土台そのものの変化です。
こどもの周りから、「地域の大人」が消えた
1980年代には約20%あった3世代同居は、2020年には7.7%まで減っています(国勢調査/内閣府男女共同参画白書)。同じ時期に、共働き世帯は専業主婦世帯を大幅に上回るようになりました。
家に帰っても誰もいない。地域に顔見知りの大人もいない。
そうなると、こどもの放課後は、自然に集まる時間から、予定された場所やプログラムへと移っていきます。「こどもにいろんな体験をさせたい」という親の気持ち以上に、「見てくれる大人がいないから行かせている」という実態が、その背景にあると言えそうです。
遊べる空間も変わりました。
かつてこどもたちが自由に使えた公園や、誰かに怒られながらでも使えた空き地は、整備され、管理され、ボール遊び禁止の看板が立つようになっていきました。大人の都合でつくられた街の中で、こどもが「ただそこにいる」場所は、少しずつ消えていきました。

体験が「お金で買うもの」になっていく
かつて地域コミュニティが自然に担っていたことがあります。
こどもの見守り、遊び場、ただそこにいられる時間。
それらが今は、サービスとして市場で提供されるようになっています。フローレンスはこれを「体験の市場化」と呼んでいます。
かつて地域や放課後の中に存在していた体験は、今では習い事、イベント、学童、体験プログラムなど、外部サービスとして提供される場面が増えています。
以前は「そこに行けば得られた体験」の一部が、少しずつ「申し込み、移動し、お金を払って参加するもの」へと変わってきました。
外部のサービスには安全配慮義務があり、保険や管理のコストが乗る。結果として、「体験」にかかるお金はどんどん上がっていく。
習い事や地域のプログラムに参加できないこどもは、どこへ行くのか。
年収300万円未満の世帯では、こどもの3人に1人が「体験ゼロ」というデータがあります。(『体験格差』(今井悠介))
かつて地域の中に広く存在していた体験の土台が小さくなるほど、体験の入口は家庭の経済力に左右されやすくなっていきます。体験の入口そのものが、経済的なハードルで閉じてしまっているのです。
「昔に戻ればいい」という話ではない
もちろん、これは単純な懐古論ではありません。
専業主婦世帯が多かった時代は、女性のキャリアが制限されていた時代でもありました。女性の働き方や生き方の選択肢が広がったことは、間違いなく、社会にとって大切な前進です。「あの頃はよかった」とは、簡単には言えない。
だからこそ残る問いがあります。
社会が前進したはずなのに、なぜこどもたちの「ただいる場所」は減ったのか。そして、昔に戻るのではなく、今の時代に合った形で何かを取り戻すことはできるのでしょうか。
続きは音声で
「なぜ今、体験格差なのか」という問いへの答えと、これからのコミュニティのあり方について、エピソードの後半でさらに深掘りしています。続きはぜひ音声でチェックしてみてください。

