フローレンズラジオは、社会課題をさまざまなレンズから見つめる音声コンテンツです。
今回は、「制度は、どうやって生まれるのだろう?」という視点から、このテーマをのぞいてみます。
2021年6月、「医療的ケア児支援法」という法律が成立しました。
人工呼吸器や経管栄養など、医療的なデバイスの助けを借りながら生活するこどもたち——医療的ケア児。そのこどもたちと家族への支援を、国や自治体の「責務」として初めて明記した法律です。
でも、少し不思議に思いませんか。
医療的ケア児は、2021年に突然現れたわけではありません。NICU(新生児特定集中治療室)をはじめとする新生児医療の進歩によって、医療的ケア児が増え始めたのは、いまから30年以上前のことです。その経緯は前回の記事:こどもが2割減った20年で、なぜ医療的ケア児は2倍になったのかで紹介しました。
ところが、法律がこのこどもたちの存在に初めて触れたのは2016年。そして「医療的ケア児」という言葉が法律に定義されたのは、そのさらに5年後、2021年の支援法でのことでした。
こどもたちは、ずっとそこにいたのに。制度が追いつくまでに、長い時間がかかったことになります。
なぜ、こんなに時間がかかったのでしょうか。
実はこの「時間差」は、医療的ケア児に限った話ではありません。日本の障害福祉の歴史をさかのぼると、同じパターンが何度も繰り返されてきたことが見えてきます。
今回は、その歴史をたどりながら、「制度はどうやって生まれるのか」を見ていきます。
制度は、最初から完成しているわけではない
いま日本にある障害福祉の制度は、戦後につくられた骨格の上に立っています。
- 1949年 身体障害者福祉法
- 1950年 精神衛生法(現在の精神保健福祉法)
- 1960年 精神薄弱者福祉法(現在の知的障害者福祉法)
「身体」「精神」「知的」。多くの人が「障害」と聞いてイメージする3つのカテゴリーは、この時代に法律として形づくられました。例えば身体障害者福祉法は、戦争で負傷した人たちが職業に就いて生活を立て直せるように、という当時の社会の要請から生まれています。
ここで大事なのは、それぞれの法律に「定義」があったということです。
身体障害とはこういう状態、知的障害とはこういう基準——。定義に当てはまると認定されて、手帳が交付され、支援サービスが使えるようになる。日本の障害福祉は、そういう仕組みで動いてきました。
定義があって、初めて支援が届く。
裏を返せば、こうなります。
どの定義にも当てはまらない人には、支援が届かない。
まず名前がつき、それから制度ができる
このことが最初に大きな問題になったのは、高度経済成長期のことでした。
重度の知的障害と、重度の肢体不自由。その両方があるこどもたちが、行き場を失っていたのです。
知的障害の施設からは「身体のケアには対応できない」と言われ、肢体不自由の施設からは「知的障害には対応できない」と言われる。どちらにも当てはまるのに、どちらからも受け入れられない。結果として、長期入院を余儀なくされ、社会から孤立していきました。
このこどもたちには、最初、名前がありませんでした。
転機は1963年。
当時の厚生省が行政通知の中で「重症心身障害児」という言葉を使い、支援の対象として位置づけました。法律ができる前に、まず行政の現場が動いた形です。
そして1967年、児童福祉法が改正され、「重度の知的障害及び重度の肢体不自由が重複している児童」という定義とともに、病院と福祉施設をあわせもつ「重症心身障害児施設」が制度化されます。
さらに、小児科医の大島一良さんが、判定のための分類表を考案しました。縦軸に知的障害の程度、横軸に運動機能の程度をとった5×5のマス目——「大島分類」です。この基準ができたことで、「誰が対象なのか」を判定でき、制度が実際に動くようになりました。
まず名前がつく。次に定義が定まる。そして制度ができる。
医療的ケア児より前に、この順番をたどったこどもたちがいたのです。

医療的ケア児は、「どれにも当てはまらない」こどもだった
1990年代以降、新生児医療の進歩とともに増えていった医療的ケア児。
このこどもたちの前に立ちはだかったのは、皮肉なことに、先人たちが積み上げてきたその枠組みでした。「身体」「知的」「精神」、そして「重症心身障害児」——どの定義にも、「医療的ケアが必要かどうか」という基準は入っていなかったのです。
重症心身障害児が「どちらにも当てはまる」ことで狭間に落ちたとすれば、医療的ケア児は「どれにも当てはまらない」ことで狭間に落ちました。
例えば、こんなこどもがいます。
立てるし、歩ける。知的な発達も、定型発達のこどもと変わらない。でも、疾患の影響で口から食事をとることが難しく、チューブで胃に栄養を届ける「経管栄養」で暮らしている。
このこどもは、身体障害にも、知的障害にも、重症心身障害児にも当てはまりません。つまり、障害福祉のサービスが使えない。
「では、地域の保育園に通えますね」——そうはなりませんでした。「医療的ケアのあるお子さんはお預かりできません」と断られてしまうのです。
制度の上では「障害なし」。それなのに、保育園には入れない。福祉からも、保育からもこぼれ落ちる。
行き場がないから、家庭で——主に母親が——24時間のケアを担う。前回の記事で紹介した医療的ケア児家庭の暮らしの背景には、この構造がありました。

動き出した社会
では、この状況はどうやって変わっていったのでしょうか。
最初に社会課題として表面化したのは、学校でした。1988年、東京都教育委員会が「痰の吸引などが必要な児童生徒は、原則として訪問学級で対応すべき」という方針を示したのです。家に先生が来てくれる訪問学級はそれ自体大切な仕組みですが、問題は「原則」とされたことで、通学という選択肢が失われたことでした。
すべてのこどもに教育を受ける権利があるのに、通学できないのはおかしいのではないか——議論が始まりました。
2000年代に入ると、「学校で誰が痰の吸引をするのか」が大きな論点になります。医療行為だから医師や看護師にしかできない、という原則と、「家では家族が毎日やっている」という現実。議論の末、2003年ごろから一定の条件下で教員などによるケアを認める例外的な運用が始まり、2012年の法改正で、研修を受けた介護職員や教員が痰の吸引や経管栄養を担えることが正式に制度化されました。
並行して、当事者の家族や親の会が声を上げ、全国的なネットワークをつくっていきました。
そして、支援の現場を政治が「見る」機会が生まれます。
医療的ケア児を受け入れる保育の現場に、国会議員が視察に訪れるようになりました。資料の中の「医療的ケア児」が、名前と顔のある一人のこどもに変わっていったのです。
2015年には、超党派の勉強会「永田町こども未来会議」が発足。与野党の国会議員、官僚、医療関係者、福祉事業者、当事者団体が一堂に会して、医療的ケア児の課題を議論する場ができたのです。フローレンスも、全国医療的ケア児者支援協議会の事務局として、この場に参加してきました。
積み重ねは、2016年に一つの形になります。児童福祉法の改正で、人工呼吸器を装着しているこどもなど、医療的ケアを必要とするこどもへの支援が、法律に初めて位置づけられたのです。名前のないままだった存在が、「支援すべき対象」として公式に認められた瞬間でした。
ただし、このときの支援は自治体の「努力義務」。
「できたらやろう」——それが努力義務です。実際、自治体によって支援には大きな差が残りました。
そして2021年6月、医療的ケア児支援法が成立。
省庁がつくったのではなく、国会議員が主体となった議員立法です。支援は「努力義務」から国・自治体・学校・保育所などの「責務」へ。全都道府県に相談窓口となる「医療的ケア児支援センター」の設置も定められました。
特定の誰かの功績ではありません。当事者、家族、医療、福祉、教育、行政、政治——名前のない困りごとに気づいた多くの人たちが、30年以上かけて積み重ねてきたものの到達点でした。
変化は数字にも表れています。保育所などで受け入れられる医療的ケア児は、2018年度の444人から2023年度には1,253人へと、約3倍に増えました。

そしていま、同じことがもう一度起きている
めでたし、めでたし——では、ありませんでした。
医療的ケア児支援法には「児」という字がついています。対象は原則18歳未満。でも、医療的ケアは18歳の誕生日に終わるわけではありません。
実は、2021年の法律をつくるとき、大人になった「医療的ケア者」も対象に入れたい、という思いは関係者の間に強くあったそうです。それでも入れられなかった理由を、ラジオの中で、黒木さんはこう語っています。
「医療的ケア者」の定義が、まだ存在しなかったから。
どこまでの人を対象とするのか。その線引きへの合意がなければ、法律には書き込めない。定義がないものは、制度の対象になれないのです。
——既視感はありませんか。
名前と定義がないまま長期入院していた重症心身障害児。「障害なし」と判定されて保育園にも入れなかった医療的ケア児。そしていま、定義がないために法律の外に置かれている医療的ケア者。
同じパターンが、また繰り返されています。
「医療的ケア者」の定義づくりが進む一方で、支援の対象を「児」から「一生涯」へと広げるための法改正も議論されてきました。そして2026年7月、改正法が成立しました。改正によって何が変わるのかは、こちらのインタビュー記事で詳しく紹介しています。

制度は、つくったら終わりではなく、現実に合わせて育てていくもの。
その営みが、いままさに続いています。
今回のレンズ
今回は、
「制度は、いつも遅れてやってくる」
というレンズを通して、このテーマを見つめてみました。
制度が遅れるのは、誰かが怠けているからではありません。社会が先に変わるからです。
医療が進歩し、暮らしが変わり、これまでの枠組みに当てはまらない困りごとが生まれる。新しい困りごとには、最初、名前がありません。名前のないものは数えられず、数えられないものには制度も予算もつきません。
だから、誰かが気づいて、名前をつけて、定義を定めて、制度に育てていく。日本の障害福祉は、その繰り返しで前に進んできました。
制度の遅れを縮められるかどうかは、狭間に気づいた人がどれだけ早く声を上げられるか、そして社会がその声をどれだけ早く受け取れるかにかかっています。
あなたの身の回りにも、まだ名前のついていない困りごとが、きっとあるはずです。
続きは音声で
この記事では、医療的ケア児が「見える」ようになるまでの制度の歴史をご紹介しました。
フローレンズラジオでは、障害児保育の現場で事業責任者を務めてきた橋本さんと、医療的ケア児支援の事業と政策提言の両方に携わってきた黒木さんが、制度が生まれるまでの歴史や、現場で見てきた変化を、それぞれの実体験を交えながら語っています。重症心身障害児に名前がつくまでの経緯も、2021年に法律ができた日の喜びも、実感のこもった言葉でお話しています。
続きは、ぜひ音声でお聞きください。
出典
- 下川和洋・金澤裕香・湯川慶子(2025)「日本における医療的ケア児支援法制定に至る歴史的沿革と今後の展望」『保健医療科学』74巻1号.
- e-Gov法令検索「医療的ケア児及びその家族に対する支援に関する法律」(2021)
- e-Gov法令検索「児童福祉法」(1947)
- 内閣府(2015)「平成27年版 障害者白書」第3章(障害者施策の経緯)
- 厚生労働省(2021)「医療的ケア児及びその家族に対する支援に関する法律の全体像」
- 文部科学省(2019)「学校における医療的ケアの実施に関する検討会議の中間まとめについて」
- こども家庭庁(2024)「医療的ケア児等とその家族に対する支援施策」
- こども家庭庁(2025)「令和5年度 保育所等における医療的ケア児の受入状況」(p.15「医療的ケア児の受入れ状況の推移」)


