2017/05/01
特別養子縁組で3児の親になった夫婦-そして家族になる-
特別養子縁組インタビュー企画。今回は特別養子縁組で3人の子どもを迎えたご夫婦に話を聞きます。
まだまだ知られていない特別養子縁組。興味関心があったとしても身近に前例がなく、「養子を育てる家族」がイメージしづらい現状もあり、以下のような声をいただくことが増えてきました。
・子どもはどこから来るの? 子どもの生みの親はどんな人で、なぜ子どもを手放すの?
・いくつかある特別養子縁組の民間団体。どこがどう違うの? どうやって選べばいいんだろう?
・周囲の人にはどのように伝えたらいいの?
・出生の背景、子どもにどんな風に伝えるんだろう?
【特別養子縁組とは】
「家を継がせる」ことを目的とした普通養子縁組と異なり、特別養子縁組は6歳未満の子どもの福祉を目的として1988年につくられた制度です。実の親が育てられないなどの理由から、血の繋がりのない育ての親と子どもが「特別養子縁組」をすることで法律上実の親子となります。
そこで今回は、実際に3人のお子さんの特別養子縁組を行い、育てているご夫婦にインタビュー。特別養子縁組に至るまでの道のり、子育ての過程で大切にしてきたこと等、特別養子縁組の壁の乗り越え方、また今こどもが成長する中で思うことなどのお話を伺うことができました。
「これから特別養子縁組で子どもを迎えることも考えていきたい」という方にも、ぜひ読んでもらえたらと思います。
お話を聞かせてくださったのは-
宮城県在住の佐々木啓子さん・健二さん夫婦。
特別養子縁組で3人の子どもを迎え、6歳、4歳、1歳の子どもと共に5人家族で暮らす。今春、一番上の子が小学校に入学。ふたりが一番上の子を迎えたのは啓子さんが34歳、健二さんが45歳、結婚から9年が経った頃でした。
不妊治療も実を結ばず。でも子どもを育てることを諦めきれなかった-
-特別養子縁組について考えたきっかけは?
啓子さん(以下、啓子):夫とは地元の子どもの遊び場づくり(プレーパーク)の活動を通じて知り合い、私が25歳、夫が36歳の時に結婚しました。ふたりとも子どもと関わるのが好き。
でも私が20代の前半で生理がこなくなりなりました。その後も婦人科に通っていたけれど、排卵も起きなくて、妊娠できるのか不安で。
詳しく検査をしたところ、早発閉経と診断されたのが28歳のときでした。
夫は「ふたりでも幸せだよ」と言ってくれましたが、とても苦しい時期でした。その後、詳しい検査をしたり、不妊治療も少ししましたが、排卵がないのですから、できる治療は少なかったです。
妊娠は難しいのかもしれない、けれど夫婦で子どもを育てたかった。子どもと一緒に生きることを諦めきれない想いがどうしてもありました。
私の母親は離婚した後、働いて私と弟を育ててくれたんですが、愛情豊かに明るく育ててくれたので、もらってきたことを誰かに返したいという想いがあったのかもしれません。
-養子縁組についてはいつ頃から考えていたんですか?
啓子:早発閉経のことがあったので、それが分かってから養子縁組について調べてはいましたね。当時はまだ養子縁組についての情報は少なかったから、地元の里親会に話を聴きに行ったりもして。その頃は30代前半でした。
養子縁組したいと思ったのは、血がつながらなくても家族になれるという気持ちが根底にあったからかもしれません。
子どもに関わる活動を長らくしていたので、いろんな子どもとの出会いがあって。それが養子縁組のハードルを下げていたのかもしれません。
不妊治療をする前から、子どもと触れ合う機会があったのは大きかったと思います。
自分だけが勇み足にならないように…夫婦でとことん話した
-ご夫婦とも同じ気持ちだったのでしょうか?
啓子:養子縁組についてはどちらか言うと私のほうが「子どもを迎えたい」という気持ちが強かった。けれど、子どもは夫婦で育てるものだから、自分だけが勇み足になっちゃいけないなと、意識して夫の意見を聞く時間をつくっていました。
里親会も平日で、当時はひとりで行っていたので、夫には「今日はこんな話を聞いてきたんだけど、どう思う?」といった感じでちょっとずつ話す機会を作っていましたね。
健二さん(以下、健二):養子縁組について妻から聞いたときは賛成でした。ただ、自分たちが希望したとしても、相手があることで実現するかどうかわからないから、落ち着いて進めよう、その時はそんなふうに思っていましたね。
啓子:ある時里親会で、子どもを迎えてからお母さんが病気で亡くなったお宅の話を聞いて。そういうことも起きうるのだなと思いました。
たとえ私たちのどちらが病気で亡くなったりしても、子どもを二度と家族から引き離すことがあってはいけない。だから夫婦で納得してからじゃないといけないなと思っていました。
話を何度も続けていくうちに夫も自分と同じように「血のつながりがなくても、自分の子」だと感じられたので、特別養子縁組の道を進むことができました。
不妊治療の終了。医師が現実を伝えてくれたことが背中を押す
-啓子さんが33歳になったころ、妊娠が困難であることの最終的な診断書が出て、本格的に特別養子縁組を検討し始めたのですね。その時はどんな気持ちでしたか?
啓子:担当のお医者さんが誠実な方で、「現代医学ではこれ以上の治療はありません」と私に伝えてくれました。
「やれることはもうないんだ」ということは本当につらかったけれど、だからこそ不妊治療を終わりにしようと区切りをつけられました。
当時は周りから「まだ若いんだから大丈夫よ」と言われ、切なくて。だから自分からおねがいして診断書を書いてもらいました。前に進むためにそれを心のお守りにしようって。
-その後、いよいよ養子縁組に向けて、民間団体の説明会に参加し始めるのですね。
啓子:私たちは2つの民間団体の説明会にいきました。
民間団体にもそれぞれ特徴がありますし、相性もあると思います。結果的に、私たちは活動方針に共感して納得できた団体で面接してもらえることになりました(それが実際に子どもを迎える団体になる)。
面接のときは私が緊張しすぎて、一見冷静な夫と待ち時間に喧嘩になりました・・(笑)
生みの親はどんな気持ちで子どもを手放すのか
-その民間団体はどんな点が決め手となったのでしょうか。
啓子:私たちは生みのお母さんがどういう気持ちで、子どもの手を放すのかがすごく気になっていたんですが、その団体は、情に訴えるとかそういう説明ではなく、淡々ときちっと説明してくれました。
そしてこちらが気になるように、生みのお母さんのほうも、どんな人が育てるんだろう? と不安を抱えているということを知りました。
その団体は、まずは第一にお母さんが安心して出産できて、子どもの命が守られて元気に生まれてくるためにサポートします。お母さんの困難を理解していてまずはどうしたら育てられるか一緒に考え、それしか道がないとなったときに、養子縁組について話す。
生みのお母さんが自分で進む道を決めることを大事にしていたのです。そのやり方がすごく腑に落ち、そこに決めました。
私たち自身が子どもを迎えたい気持ちが大きかったのはもちろんありますが、子どもも私たち養親も、生みのお母さんも、みんなが幸せになってほしいという思いがあります。
-その後はどのように進んだのでしょうか。
啓子:私たちが決めたからといってすぐに次のステップにということではなく、1年ほどはかかりました。
面接して養親として登録となった後も、「赤ちゃんが来るんだ」とか「うれしい」という気持ちにはなれなかった。
自分が親として子育てしている姿をイメージして期待しすぎて、もし委託がなかったら……と怖かったのかもしれません。
産まれたという連絡、頭が真っ白に。怒涛の4日間
-そして、いよいよ第一子となるお子さんが産まれたという連絡が入ります。
啓子:ちょうど夫の単身赴任が終わったタイミングで。夫が7月に帰ってきて、10月に上の子を迎えました。(当時啓子さん34歳、健二さん45歳)
産まれたという電話があったとき、頭が真っ白になりました。その日が来るなんて到底思えなかったので、うれしいというよりは緊張感でいっぱいで。電話で聞いたことを必死で全部メモを取っていました。
お迎えにいくまでは4日ほどしかなく、遊び場をやっていた仲間の人たちにも伝えると、だっこ紐などすぐに要るものをくれました。悩んでいる時間がなかったので、子育て中の人が周りにいて泣きながら相談してました(笑)。
おさがりが温かくて励まされましたね。なんとか最低限のものを揃え、生まれたのは遠方の病院だったので、夫とふたり飛行機で迎えにいきました。
-そして病院ではじめての対面。どんな気持ちでしたか?
啓子:最初に抱っこした時、上の子はすごく小さかった。こんな小さい可愛い子が、自分たちと家族になって、いいのかなぁって。
でも、私たちはこの子と生きていく。どんなことがあっても受け入れていこうと強く思いました。
健二:本当に小さくてかわいかったけど、妻とは「今日は喜ばないでおこう」と話していました。赤ちゃんはお母さんと別れたばかりだから。
啓子:赤ちゃんは小さくてもちゃんと分かっていて、10ヶ月温かいお腹にいて、聞いていたお母さんの声とも違うところにポンと連れられてきて、不安を感じているはず。
生みのお母さんだって、人に託すと決めたとしても送りだすことは辛かったはず。そこには想いがあったと思うんです。だから、その日は喜ばないでおこうと決めていました。
はじめのオムツ替えの時、手が震えてうまく換えられなかったのを覚えています。保育士をしていたので、オムツも何百回と替えてきて慣れているのに、震えが止まらなくて。
24時間子どもが中心のめまぐるしい生活へ突入
-それからいよいよ子育てが始まって、どんな日々でしたか?
啓子:それまで大人ふたりの生活だったところに、2時間おきの授乳やオムツ替え、24時間子どもが中心のめまぐるしい生活になり、最初の1ヶ月は大人の体も生活の変化についていくのがやっとのこと。
上の子はすごく敏感な子で。抱っこして、ようやく寝たと思ったら、10分したら泣く、みたいな感じ。
ひとり目の子育てはみんなそんな感じらしいけれど、やっぱりはじめての経験なので、ちょっとからだが熱かったら心配で。
2人目、3人目だと抱っこしながらごはんも食べられるけど、当時は抱っこしながら御飯食べるなんて考えられない、という感じでした。
母や友達がきている間に抱っこしてもらい家事をして、なんとか乗り切ったという感じです。
健二:上の子は本当に夜寝ずよく泣いていましたね。
昼間は私が仕事で、妻が子どもとずっと一緒なので、せめて夜は私の番。暗いところに連れて行ってずっと抱っこしていましたね。
-幸せを実感したことはどんなことでしたか?
啓子:すべてがうれしいし、すべてが幸せなんですけど、そうですね・・・
上の子を迎えて2~3ヶ月した時に布おむつにして、それを干す時に幸せを感じました。なにもかもですね。
ミルクを飲ませるとき、ベビーカーを押すとき、すべてが幸せでした。
遊び場のつながりでちょうど近所に2ヶ月違いで子どもが生まれたばかりの友達がいて、ベビーバスの使い方を教えてくれたり、そのお父さんが一緒にお風呂にいれてくれたりしたんです。
そういうふうに一緒に子育てをする人がいたのがありがたかった。
産んでる・産んでないに関係なく、「佐々木さんちの子なんだね」と一緒に喜んでくれる人がたくさんいたのは、すごく大きかったなって思います。
こちらがオープンにしていれば嫌なことを言われることはない
-周囲の人にはどのように伝えましたか。
啓子:突然赤ちゃんを迎えるわけですから、まわりの人もあれ??と不思議に思うわけです。
知っている人には最初から話していて、家のご近所さんには会った時に「私が産めない体で、特別養子縁組で迎えました」と話しました。当時は町内でお掃除をする日が月に1度あって、その時にとかに。
まわりの反応は、基本「おめでとう!よかったねー」というのが大半。
こちらがオープンにしていれば、嫌なことを言われるいうことはなかったです。
誰にでも言うことでもありませんが、あえて隠すことでもない。子どもが大きくなる前に、疑問や質問は私に聞いてほしいと思っていました。そうしたら子どもは生活しやすくなるんじゃないかって。
啓子:区役所での届け出なんかも、とってもスムーズでした。
特別養子縁組で・・と言えば、「分かりました」と、時間がかかっても手続きについて調べてきてくれました。
赤ちゃんを連れて役所に行くときはとても緊張しているので、窓口の職員さんが優しくしてくれるとほっとしました。
職員さんが「よく育ってるね」と言ってくれたことが、とてもうれしかったことを憶えています。
裁判が終わるまでは、病院に連れて行った時など、子どもは生みのお母さんの苗字で呼ばれます。それが気になる養親さんもいるそうですが、うちは病院や検診などでもそのまま呼んでもらっていました。
今この子が持っているものを大切にしたいと思っていたので。
-その後2年後に2人目のお子さんを迎えることになりますが、きょうだいを迎えたいというお話は夫婦でしていたのですか?
啓子:上の子が1歳過ぎた後くらい時に、もうひとりいたら楽しいだろうなと思っていました。
でも子どもも生みのお母さんも大変な決断をしてやってくるので、そんなことを口に出していいんだろうか、望んでいいんだろうか、という思いもありました。
たまたま私たちがお世話になった団体の方に会った時に、「2人目とか考えているの?」と聞かれたことがあって、その時はじめて「考えてます」と伝えることができました。
啓子:2人目、3人目を考えることができたのは、上の子たちがすくすくと大きくなってくれていたことが大きいです。
生みのお母さんに対しても団体を通して報告を送っていて、「向こうからこういう風に返事が来たよ」と聞いていたことや、団体の丁寧なケアによって、生みのお母さんが前を向いて暮らしていることを感じられたことも大きかった。
自分だけの気持ちで進めていいのかと感じていましたが、生みのお母さんが「佐々木さんのおうちの子になってよかった」と感じてくれたことを知り、私自身も前向きに次の一歩を踏み出すことができました。
お互いを全く知らないと、どんなひとだろう?って、妄想ばっかりが膨らんじゃいませんか?
生みのお母さんにしても、私たちの方にしても、何をしてるかわからない、どこにいるかもわからないだと不安になります。
私たちがお世話になった団体は、養子縁組が成立した後も生みの親と養親両方のケアをしているのですが、私達の養親としての経験からも、これはとても大切なことだと実感しています。
血がつながらなくても「縁」でつながっている
啓子:特別養子縁組のマッチングは、「赤ちゃんはどこにいってもいい」わけではありません。生みのお母さんの抱えている問題、子どもの状況、養親の心の準備がどれくらいできているか。
そういったことを見極めて、子どもがよりよい環境で育つために委託先を考えていくのだそうです。
子どもたちが私たちと家族になったということは「縁」があってのことだし、ここが最善と信じて託されたんだなって。
「育てることはできなかったけれど、幸せになってほしい」そういう生みのお母さんの気持ちも、団体を通して伝わったからこそ、子どもたちにわかる言葉で伝えていくことが、私たちの責任だと思っています。
子どもたちに早めに出自を伝えていく理由
-お子さんたちには真実告知はどんな風にしていますか?
健二:我が家では子どもたちが小さいころから、「お父さんとお母さんは、赤ちゃんを産むことができなかったの。〇〇ちゃんには、産んでくれた人がいるんだよ。」と伝えてきました。
「〇〇ちゃんを産んでくれた人はね、どうしても赤ちゃんを育てることができなくてね。お父さんとお母さんに代わりに育ててくださいねって言ってくれたんだよ。」
「お父さんとお母さんは、〇〇ちゃんに会えてとっても嬉しかったんだよ。お父さんとお母さんは〇〇ちゃんが大好きなんだよ。」と話しています。
啓子:私は最初は上の子が1歳半くらいの時から、つぶやいていました。
私の「心の準備」というのもあったと思います。赤ちゃんに話すのに、すごくドキドキしていました。
健二:2番目の娘の4歳の誕生日前に妻が「〇〇ちゃんを産んでくれた人の写真を見たい?」と聞くと「みたい!」と答えていたそうです。
誕生日が過ぎて数日後に、娘と過ごしているときに写真を見せると、娘は「わあ!」と嬉しそうな顔をして、写真にキスをして「ありがと」「ありがと」と言ったといいます。
妻が「どういう意味なの?」と聞くと娘は「産んでくれたから」と-。
子どもたちにはいつも驚かされます。私も妻からそのことを聞いて、娘の心の成長に涙が出ました。まっすぐに、大きな愛をもった子どもに育っています。親バカのうれし泣きです。
啓子:それぞれ伝える情報は気をつけてあげないといけないけれど、子どもたちには「知りたいと思ったらいつでも知れるよ」ということを伝えています。私たちが持っている情報は整理して保管していて、それを使うか使わないかは、子どもたちが決めればいいと思っています。
上の子は、先日おばあちゃんに「いつか会いたいな(産みのお母さんに)」と話していました。そう思うことは当然だと思いますし、言ってはいけないと思わないように、普段から自然と話せる関係を意識しています。
伝え方が上手くなかったなという時もあるんですが、そういう時は「ごめんね、伝え方がうまくなかったね」と正直に子どもに謝って、次は上手く伝えられるようにしたらいいと思うんです。
上の子から満たしてあげないと、他の子に優しくできない
-きょうだいができた時に、お子さんはどんな反応でしたか?
啓子:上の子の場合は、2歳3ヶ月くらいの時に妹を家族に迎える体験をしています。「赤ちゃんが生まれたから迎えにいこうか」と伝えて一緒に迎えに行きました。
妹が来た時、上の子はバリバリ赤ちゃん返りがありましたね(笑)
2人目の子を迎えた時、「お兄ちゃんだから」と言わないように気をつけました。上の子のことを優先に、親が「ただいま」と帰ってきたら、先に上の子をだっこしていました。
健二:上の子のほうから満たしてあげないと、子どもも下の子に優しくできません。下の子をよしよしとする時は、おにいちゃんの後ろから、おにいちゃんと同じ目線で、下の子を見るようにしています。
2ヶ月、3ヶ月一緒に過ごしながら私たち夫婦も子どもたちも、4人の生活、5人の生活に慣れていった感じです。
上の子は家族増えてうれしいみたいで、「もうひとりいたらいいよね」なんて言ったりもします。
-お子さんたちにこれからどんな風に育ってほしいですか?
健二:自分で考えられる人、そして、強くあってほしいです。これから必ず試練を味わうはずだけど、ずっと助けてあげられるわけじゃないので。
そう考えているから、普段は子どもの後ろから歩きます。親がどこかへ連れて行くんじゃなくて、子どもが先。
話も「お父さんわからないから、〇〇のお話を聞くのがいいんだよね。」と子どもの話もできるだけ聴いて、会話を続けるようにしています。
啓子:笑って、素直で、元気に育っていってほしいです。身体も元気だったら、心も健やかに過ごせると思うので。
いまはあったかい人に守られて、価値観も似ている人たちの中で過ごしていますが、小学校に上がると、いろいろな価値観に触れるでしょうね。
何か人と違うところとか、ほころびなど、心がイガイガしている子ほどそういうのを見つけやすい。養子であることを言われるときもあるでしょう。
でも、泣いて帰ってきても、ちゃんと受け止めてあげたいです。幸い、家族の中にいろいろな立場の大人がいるので、私にいえなくても夫に言えるかもしれないし、おばあちゃんに言えるかもしれないという安心感はあります。
健二:子どもが強くなるためには、甘えられる、受け止めてもらっている、というのが大事だと思っています。
この前、養子の子は「自己肯定感が2倍」という調査結果が出ていましたが、それは子どもを心から愛していることを親が意識して言葉にするから、というのもあるように思います。
心ではみんな思っていると思うけれど、それを言葉にしているかどうかで違いが出るのだと思います。
普通に血の繋がった家庭だとあまり言わないこともあるかもしれませんね。
養子家庭は言葉にすることを意識する割合が多いので、そういうのも自己肯定感に関係しているように思います。
啓子:今、上の子は小学校にあがったばかりで、気持ちが伸びる時。「だっこー」って言ってくるので、23キロくらいあって、少々厳しいですが(笑)、それも外で頑張っている反動。
家庭ではだっこ、と言われたら数秒でも手を止めて、向き合うのが大事かなと思っています。
家族をつくる「もう一つの道」があることを多くの人に知ってほしい
-最後に、日本で特別養子縁組が拡がっていくために、どうしたらよいと思いますか?
健二:不妊治療をしている人も、早い段階でこの制度を知ってほしいと願っています。多様な家族の形があることを多くの人に知ってほしいです。
いつも思うんですが、ひとつの家族が幸せにできる子どもの数は限られています。子どものすべてを受け止めて、愛情いっぱいの家庭で育つ子どもが増えるようになるといいなと想います。
啓子:私たちも普通に子育てして生活しているので、周りにいる人達にどれだけ伝わっていくかで偏見もなくなっていくのかなと思います。
近所のクリーニング屋のおばちゃんとかと話していていると、「実は親戚で子どもができなくて悩んでいる人がいて。あなたのこと言っていい?」と言われたりして、もちろん「いいですよ」と答えてます(笑)
世の中にもっと特別養子縁組に関する情報があったらいいですよね。今はブログもたくさんあるので、そういったものから情報集めしていくのもよいと思います。
啓子:あと、生みのお母さんの小さなSOSを受け止める社会になってほしいです。何も知らない頃は生みのお母さんは特殊なケースだと思っていたけど、そうじゃない。
自分には相談できる親がいて、友達がいて、たまたま陥らなかっただけで、それがなかったとしたら。
困難が重なる中で、追い詰められていたかもしれない。誰もが陥る可能性があったと思うんです。
そういう風に身近な問題として考え、たくさんの人が関心を持つことで、生まれたばかりの赤ちゃんが亡くなるようなことがなくなることを願っています。
※佐々木さん家族の記録ブログはこちら 5人家族になりました!~特別養子縁組への道、そして真実告知~
●フローレンスでは特別養子縁組に興味があるご夫婦を対象としたオンラインの研修を行なっています。特別養子縁組を検討する最初のステップとしてご活用ください。
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※文中に出てきた民間団体について: フローレンスではこの民間団体の考えに賛同し、協働して特別養子縁組の支援活動を行っています。
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書いた人:藤田 順子
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